無限回帰する懐かしさと「味のある」という感情

    突然だが、お笑い芸人の話をする。今で言うとサンシャイン池崎、少し遡ればゆってぃ、さらに遡ればダンディ坂野にあたる、所謂一発屋というジャンルが存在するのはご存知だろう。彼らは流行の中でたまたまヒットした「ゲッツ」や「イェエエエエエイ!!!」など売りがひとつに限られる芸人という括りになる。一発屋というのはなぜ存在するか。端的に言えば、彼らは存在自体ではなくやったことに対して価値が与えられたわけだ。そしてそれが偶然の産物でありながら、偶然に終わった産物でもあるということだ。では、一発屋で終わらないお笑い芸人とは何なのだろうか。例えば2人組のコントや漫才は、2人の掛け合いのテンポや織り成す世界観などによりテンションの緩急が激しくなって思わず笑ってしまう。3人組でも同じようなことが言えるだろう。では、一発屋ではないピン芸人はどういう理由で売れ残っているか。そこには「味のある」という共通点があるのだろうと最近思ったのだ。陣内智則は、予め用意した映像や音声を利用して1人で独特の世界観を作り上げる。バカリズムは独特な発想とシュールな絵で自らの味を作っている。その味が番組内でのやり取り、コメントなどにも現れている。だからどっかしらのバラエティ番組を見れば「味のある」方たちがいるのだ。

    その味は、お笑いであればネタの内容が異なっていても感じられるものだ。音楽でも同じことが言える。Youtubeに色々な楽曲が上がる現代、人々は自分が「味のある」と感じる動画を見たり音楽を聴いたりしている。そのコンテンツの提供者は同じ人、もしくは似た人(同ジャンルの人)になるだろう。コンテンツの提供者は、いわば味を出して収益を得ている。自分の味を自由に嗜んで貰えるようになった現代、とびきりの味を提供しようと多くのレッドオーシャン市場の住人が精を出している。そしてリスナーは気に入った味を無限に味わい、かみ続けている。味がなくなるまで、味に飽きるまで、無限に。

 

    リスナーだけではおわれないな。人生というものは。人の味をしっかり確かめ、自分も味を出していかねば。

 

    はて、なんでこんな話をしたのだろうか。まぁ、それが世界の無駄であれば一興になる。無駄という大きな手の上で遊ばれている。それが味なのかもしれない。