緑色は目ではなく心にいい色~灰色の時間静止性

    かつて、「緑色のものを見ると目が良くなる」という都市伝説(?)があったのをご存知だろうか?これは当然ながら嘘である。これは諸説あるが、遠くの山を何日も見続けていた人が視力が上がったのを「緑である」せいにしたことから広まったらしい。僕は、それが嘘であることを小学生の時に知って驚いた記憶がある。

    ただ、「緑色」という色は僕にとって非常に心地の良い色だと思う。桜が散って、生い茂る自然が目立ってきた今日この頃、太陽の当った植物の色味はなんとも言えない美しさがある。特に北大にはかなりの量の木が植えられている訳だが、その多さと連続性がある種の集団美を生み出している。

    僕はそもそも、木が生み出す曲線が好きだ。盆栽でよく「躍動感」と言われるような要素だ。近くで見た時の、人間でいう筋肉質のような生きている感じや、太い幹から太陽の方向に伸びていく細い幹がフラクタル構造をなして伸びていくのが美しい。

    酒井 格氏の「森の贈り物」のような自然独特の躍動感や神秘性を感じる曲も当然好きだ。あの曲を聴いていると、本当に自分が森の中にいるような気になる。

    話を「緑色」に戻すと、緑色といえば「野菜」とか「ビタミン」などのワードも思い浮かぶ。ビタミンは五大栄養素にも含まれ、概要的にいえば体の調子を整える役割を持つ。その役割もあってか、「緑色」というワードと「健康」というワードも近しい関係性があるとも言える。僕の大好きな「緑茶」も、栄養素的には体に良いものが多く含まれる。

    色々書いてて思ったが、結局緑色は心身ともに健康になれる癒しの色であると言えそうだ。特に植物の持つ緑色は、ディジタルでなくアナログに微妙に変化して見える、それが独特の美しさを持つ緑なのである。

    同時に、僕は白黒写真のような世界観も好きだ。昔は何気なく白黒写真を見ていたが、カラー写真以上にカメラがある一瞬を切り取ったという感じが出ているように思える。

    基本的には白黒写真に味はない。それを人間の想像力が調味料だけで若干量の味を加えているだけだ。僕はその小さな味に強いこだわりがある。写真から色味が失われると、そこに残る印象の殆どは「形」と「明暗」で決まる。路地裏とかシャッター街を白黒写真にすると良い。閑古鳥が鳴くような雰囲気を時分割してその一片を見てみると良い。時間の静止性、そして客観性を十二分に感じられることだろう。

    逆に写真が白黒であるということは、その先の色の判断を人間に任せる、という捉え方もできる。一般的には、白黒の葉っぱの写真を見れば「元は緑だったんだろうなぁ」と切り取れるし、日本のポストの写真をを白黒に加工したものを見れば「赤色」を潜在的に塗りつぶすだろう。では、もし葉っぱが「青色」だったら?ポストが「緑色」だったら?コカ・コーラが「紫色」だったら?

    我々の想像力的には、そんな想像難しいかもしれない。試しに画像加工ツールなどを使ってやってみて欲しい。「赤色の便器」「青いご飯」「緑色の人間」。芸術は、僕らの知らない解像度の世界線にある。最初は「青い葉っぱ」を我々が「葉っぱである」と認識しないかもしれない。それは白黒写真も同様ではないか?

    僕はファンタジックな非現実性のあるものが割と好きで、白黒写真もその一例だったりする。本来この世界は、我々の解像度目線で話すと白黒では無い。ただその世界は画像を加工する、視点をカメラ側にするだけではっきりと非現実味を帯びてくる。時間とともに色すらも失った空間、そこに残るのは「形」「明暗」そして「普段感じることの無い感情」だ。とても奇妙な感じで、身体中がもどかしさを感じるような感情。それを白黒写真が提供してくれると僕は思っている。

    白黒写真は時間を止め、ものをよく見る癖をつけ、想像力を掻き立てる、味のある芸術だ。