体を人生に捧げるための訓練を開始する

    中学生や高校生の頃は、「暇すぎて一日中youtube見てたー」ということが結構あった。当時は割と有意義だと思っていたし、今も無駄かと言われれば、「100%無駄です」という返答はできない。youtube自体は現代の生活のQOLを少なからずあげていると思う。

    大学生になった今、僕の考え方は少し変わった。youtubeはエンターテインメントであり、ちゃんとした使い方をしないと自分のためになることはあまりない。だったら、目指すべきものを自分の中に立ててそこに全力で向かっていく方が楽しい。僕はそう感じる人間だと認識し始めた。もちろん、youtubeは見る。何人かのYouTuberをいつも視聴して笑いを提供してもらっている。その大事な役割を外すのは今はし難い。

    だから、今を駆け抜ける時に、常に思考を忘れず、感性を日常的に働かせながら、思った通りに全力で動く。これを今から練習しようと思う。そのためには体力と根気と論理的思考と教養が必要だ(たまに審美眼も)。基礎体力なしにやっていけるような難易度ではない。それをし続けて、最終的には寿命か過労のいずれかで死ねればいいと思う。限界を感じることが日常化し、その日常を送っていく中で突然死ねればそれほど満足することは無い。長生きできなくとも、それでいい。それが理想的な「死」だ。

    何も考えずに言ったが、さてどんなトレーニングがいいだろうか。基礎的なトレーニングとして体幹や持久力を鍛えるか。また瞑想を日課にして精神統一に勤しむか。またはカフェインを使うか。とにかく今の体力で達成できるような目標ではないので、日常的にそういう意識をしていくところからかもしれない。

    もちろん最初から無理はしない。少しずつ自分が限界だと思われる臨界点を探りながら、そこに地道に近づいていく。それを続けていればいずれ自分のしたい生活ができるようになるはずだ。努力を厭うな。常に全速力で。

    このような考え方になったのは、実業家の堀江貴文氏や筑波大学准教授の落合陽一氏、幻冬舎編集者の箕輪厚介氏をTwitterでフォローしたり、書籍を読んだことがきっかけだったりする。この方々のような素晴らしい考え方を持った人の行動が割とTwitterでも知ることができるし、彼らの本を読むたびに、色々やっていきたいなと心が少年になって思ってくる。

    ただ、自分はすごい人になりたいと思っているわけじゃない。やりたいことをやりながら死ねればいいだけ。だから今楽しいと感じてやっている情報系の勉強、吹奏楽(ないしユーフォニアム)、スマブラは捨てないで行きたいし、もっと面白そうなことがあればがっついていきたい。そのためにも、世の中に対する偏見はできるだけ無くし、広い目で世の中を捉え、気になったらミクロに調べていく。それくらいの最低限のことはやっていきたい。

    勉強したい分野は多分尽きることがない。今日も忘れずに学んでいきたい。そして体を酷使していきたい。もちろんブラック企業に就きたいとかそういう次元の話じゃない(寧ろブラック企業には就きたくない)。ただ理想的な死に向かっていきたいだけだ。