教師の気持ち悪さ~1人の大人という自覚~

    僕は今某個別教室で数学と英語を中心に教えるバイトをしている。今回の話は、この間某高校生を教えていて、数学苦手な子に教えていたので疲れただろうと休憩していた時の話だ。その生徒が学校でグループワークをしていて調べものがあるらしかった。その内容が、真駒内に関すること(細かいことは忘れてしまった)で、そのグループの中に南区に住んでる人がいなかったらしい。いたところでわかる内容でもない。当然そういうのは一旦スマホで調べたくなるわけだ。ただ、教師がそれを全否定していたみたいだ。

    色々と話を聞いてみると、教師の頭硬い話がまた出てくる。未だに男尊女卑の価値観を持つらしい人もいるらしい。それを聞いて僕は、反面教師だなぁと思ったのだ。

    色々と思うことがある訳だが、先に結論を述べておこう。「こんな大人にはなりたくない」だ。自分の考えを主張するのは大事なことだが、それを使って他人の意見を押し殺してはいけない。更にスマホ大活躍な今を生きる人間として、スマホを使って何かを検索することをもっと当たり前にしていかなければならないし、検索方法くらいは教えてやれるようにしないと行けないと思う。

    とても難しい話なのだが、今の教育制度を見る限りでは今の日本の教育は時代遅れな方々が回しているように思われる。義務教育は無くさなくても良いが、入試の制度が根本的に現代に対応していない。入試改革とか一時期騒がれたが、まだそう騒げる変革はない気がする。センター試験の廃止、英語の民間テスト採用、記述問題増加、どれもこれも前からあったものをそれっぽく寄せ集めただけにしか聞こえない。そもそも僕がいいと思っている、共通した一次試験みたいなものを辞めるという案は出たのだろうか。そうして例えば情報系の学科にはプログラミングのテストを設けるなど五教科から離れるという発想はなかったのだろうか。

    少し話がそれたので戻そう。自分が1歩ずつ大人に近づいていくのを感じながら、大人とは何かを最近少し考えるようになった。最初に紹介した、頭の硬い教師にならないためには、僕は子供を支えるという意味での大人にならなければならないと感じたのだ。子供の教育の中心は教師や保育士ではない。紛れもない親だ。教師という特別な資格がなくとも子供を教育しなければならないのである。そういう立場になった時に、頭の硬い大人になっては、子供の視野も広がらず、精神的だけでなく物理的にも引っ込み思案になってしまう。

    自分自身も子供の思想の自由を奪うような行為はできるだけ避けたい。そのためにも僕は様々な人種を知り、それを受け止め、自分の考えを発信しながら他人の意見を聞く余裕をもつことが大事であり、大人としてそういう振る舞いをしたいと思っている。

    少し話は変わるが、今の日本では教師という職業が専門化しすぎているような気がする。具体的に言うと、教師になるための敷居が依然として高い。その根拠は、教師になるために大学で受講しなければならない科目の数だ(北大では中学一種で31単位、一科目の単位数が1~2なので、20弱は授業で成績そこそことらなければならない。相当暇じゃないとできない代物だと思っている)。

    ただ、教師という職はもっと敷居を下げて良いと思っている、という言い方は語弊がある。敷居を下げるのではなく、見方を変えるべきだと思っている。ガチガチに教育について授業形式で学んだ人間が人に授業できるか。形式上はできるだろう。ではそれは面白いか。人の学びの助けになるか。

    まぁ文科省がガチガチだからしょうがないし人によって何が学びの助けの指標が違う、更に授業で学ぶべきこともなくなはいはずなのでそこの棲み分けが難しい故仕方ないのだけど、今の教育には、今の学校には学校特有の体験があまり多くないように思われる。一般的な授業でやることは今ならスマホでぽんと調べられる。授業でやるとすればスマホでどう調べたら良いかの材料提供(その教科に対する基礎知識などの提供)と演習のサポートくらいだろう。故に、授業数は必要最低限にして(必要最低限という曖昧な表記なのはしたことがないため。数学は週3~4コマあれば十分だと思う、など)それ以外の部分を学校が、できなければその他の教育機関が教育という名目でもっと様々なサービスを学生に提供してあげるべきだと思う。例えば、インターンシップのような職業体験や学生の視野を広げるための講演会、音楽や映画などの鑑賞、フィールドワークのようなものをしても良いかもしれない。

   僕じゃない人が考えればもっとマシなアイディアが浮かんでくると思う。とかく言いたいのは、中学や高校が大学合格のための入試対策マシーンにならないように、そして学生にそうならないように促さなければならないということである。何故なら日本の入試制度が進学後に役に立つ、もっといえば入学時までに記憶として残すことを主の目的としていないからだ。

 

    もうそろそろ大人になってみたいと感じた記事だ。