課題曲は「マーチ」が定番なのは何故か

    吹奏楽コンクールについて、特に課題曲について長年変わっていないことがある。マーチが必ず1曲以上含まれていることだ。高校生まではそこまで気にすることのなかった議題だが、今回はそれを初心に帰って考えてみようと思う。何故、課題曲にはマーチが必須なのか。

 

1. 課題曲は「課題が見える曲」が前提

 

    マーチを日本語にすると「行進曲」であることから、マーチはコンサートマーチを除き基本は行進するための曲である(自明)。行進なので、何人かが足取りを揃えて一歩一歩力強く、時に初々しく歩く姿が想像できるであろう。そのためにも、マーチに「リズム感」は不可欠だ。更に行進するための曲であるゆえ「リズム感」以外の要素はできるだけ簡潔に収めたい。そうなると構成の和音に不協和音が来ることは少ないし、刻みなどの伴奏が特殊なリズムを発することも無い。マーチが課題曲に選ばれる理由はここにあるだろう。リズム感などをアンサンブルする力が問われながら、他の要素が簡素すぎてその要素の不足が一瞬でバレる曲であることだ。

 

2. 無感情は審査員も楽なのか

 

    吹奏楽コンクールは当然コンクールなので審査員が演奏を点数化しないといけない。そうなると、先程言ったような簡潔さは非常に粗を見つけやすく採点しやすい。更に、マーチに特別な感情を抱く(エモくなる)ことは稀であるため、審査員の感情移入や好みの差を減らすことが出来る。これは、コンクールをコンクールたらしめる要素になっていると思われる。極限まで運要素を減らし、審査員も聴く体力をそこまで失うことなく採点できる、これはコンクールという舞台において大変有利であろう。

 

課題曲についてまとめる

 

    コンクールという場が、規定上「技術をあげた成果の発表会」のようになっているのが音楽を楽しむという次元からは少し離れている気がする。ただ、やはり聴衆は音楽的なところより技術的な粗が耳に入るものだ。音楽的かどうかは置いといて、音楽全体の技術的な粗を探すゲームのようになっているような気もする。もしかしたらそこは審査員と参加者の間のブラックボックスなのかもしれないが...

    端的に思ったことを言えば、自由曲だけだと指標が曖昧でどういう基準で音楽を採点していけば良いかが抽象化してしまう。課題曲を審査側が指定することで、採点の基準を極力一括にする(特にマーチにはそういう目的がありそうだ)、しかし課題曲だけにすると音楽の自由度が失われる可能性がある。この両立を考えた時に課題曲と自由曲両方存在させるのが最も妥当という判断なのだろう。

    また、Ⅴという異色の存在は音楽としての完成形なのかもしれない。音楽の微睡み(まどろみ)が全て現れているような曲が毎年あって奇妙だな、と思う。

    コンクール時期だからこういうことを考えるのはある種の職業病なのかもしれぬ。だが、それでいい。