レッドオーシャンの世知辛さと対応力のなさ

    僕の中で、レッドオーシャンとは「努力すれば誰だってなれる存在の総称」と定義している。会社員や東大生、プロスポーツ選手などは僕の中では全員レッドオーシャンの部類にいる。

    レッドオーシャンは多くの場合精神との、そして何より他人との戦いだ。ルールに従って勝てば認知度と信用、そしてお金が手に入る、そういう仕組みになっている。就活もそうだ。ESや面接は自分の精神と他人と採用を争う、つまり戦わなければならない。詰まるところいかにマウントを取れるかの勝負だ。そのために今までやってきたこと、これからやりたいことを「マウントをとる」という視点で考える。それが就活勝利の定石だと勝手に思っている。

    結局レッドオーシャンには戦い方よりステータスが重視されるのは間違いない。サッカー選手であれば「サッカー名門の○○高校のエース」などの肩書きや今のサッカーに対する情熱などの総合的ステータスがあればスカウトが来るわけだ。そのステータスの8~9割が努力次第でなんとかなるものだ。

    逆に戦い方を重視されるのはブルーオーシャンの方である。ブルーオーシャンには「レッドオーシャンでは無いもの」と消極的に意味付けをしておく。言い換えれば、「知識と行動と人脈の融合で普通にはできないようなことをやる」くらいだろうか。音楽に例えれば「コンクールで最優秀賞をとる」のは基本レッドオーシャンであり「やったことのないであろうコンサートを開く」のがブルーオーシャンだろうか。

    僕は今色々とレッドオーシャンの方に顔を出している。吹奏楽も、院進も、ゲームも、プログラミングも、ものを取れば全てレッドオーシャンだ。これらを組み合わせるようなことをして、僕はブルーオーシャン戦略を構築したいなと思っている。このブログに赤裸々に書くのもどうかとは思うが、僕はマルチに活躍できる人を目指している。何かで世界一を取るようなことは経験則上向いていないので、多分野に足を運べるような人になりたい、それはまさにブルーオーシャンの方ではないだろうか。

    精神と戦いながらレッドオーシャンに注ぎ込む、それもいい。それが向いている人もいる。しかし、僕には不向きだと感じたので、僕はレッドオーシャンを組み合わせたマルチに活躍するブルーオーシャン人間になりたい、そう思うようになった。だから今後も僕は気になったものに首を突っ込み、興味のあるものは調べる。それを日常のように繰り返す。そしてここに書いたことを忘れず、時間と人と金と興味を意識した行動をする。それで自分の価値を高めていく。それだけだ。

    ただ、人間はある時に「めんどくさく」なってくる。そこで人間は頭を使わなければならない。それが「飽き」なのか、「体の疲れ」によるものなのかを判断しなければならない。そのめんどくささを吟味し、判断し、飽きてきたなら一旦手放す。疲れているだけなら休む。それを繰り返すのは、赤い海でも青い海でも変わらない。

    僕が色々なものが面白いと思う人間であることもあり、それらを総合してレッドオーシャンに生きる人が尊敬出来るわけだ。最初は周りの同業者との戦い、そしてある程度注目されたら会社とか聴衆とかを相手にしなければならない。そうなった瞬間急に世知辛さを感じるのだ。スポーツ選手だったらマスコミが引退に追いやった例もある。本来要らない戦いまで強いられるのだ。それよりかは真っ当な戦いが多いブルーオーシャンに生きていきたいと自然と思ってしまうのだ。

 

    レッドオーシャンを組み合わせて、ブルーオーシャンに強制的にする。現段階で最高だと思っている生き方だ。延命より至高を求める。健康体のうちに済ませればいい。死にたくても死ねない。だから、至高な生き方に依存すべきだと思う。さて、外は曇り。梅雨はいつ来るだろうか。そして、梅雨はいつ来なくなるだろうか。