基礎練習の方法概論②(インターバル、リップスラー)

    ようやく第2回だ。前回はストレッチとロングトーンという基礎中の基礎に立ち直ってみた。それを踏まえて今回は次のステップへ。音階やインターバル、リップスラーについて取り上げる。今回は練習方法というより、これらの効果を中心に説明することにする。

1. 音階練習という均し

    音階練習は、考えれば考えるほどその意味がぽんぽん出てくる。僕が思う主な目的は3つで

  1. 音色を均す
  2. 音の移動のための体の使い方を得る
  3. 調のイメージを持つ

    である。

    1.1.音色を均す

    これはロングトーンでもできることであるが、音を移動しながら鳴らすことによって例えばB♭とCの音色にある差(抵抗感が異なるため)に気づき、それを減らすことが出来る。ロングトーンでそれをやろうとすると、万全な準備のもとで慣らしにくい音を鳴らして、少し癖が減った、と錯覚しかねない。音階練習はそれを少し実践に近づけて、ある程度無意識下でも鳴らしにくい音と鳴らしやすい音の差をなくす効果的な練習方法だと思っている。

    1.2. 音の移動のための体の使い方を得る

    1と似た内容になるが、単音を鳴らすというのと音の並びを連続して鳴らすというのには少しばかり差がある。理由はわかるだろう、準備時間がロングトーンより短いからだ。音には鳴らしにくい音と鳴らしやすい音がある。その二者では息の入れ方や口の形や使い方が異なる。それを無意識で使い分けられるような練習であると思っている。

    1.3. 調のイメージを持つ

    多くの演奏曲には調が存在する。それぞれの調にはそれなりのイメージがあるはずだ(同じ曲をハ長調変ロ長調で聞くのを同じと感じる人はいないだろう)。最初は指感覚かもしれないが、慣れるにつれて音階を調として吹けるように、聴けるようになる。それが練習が実践に近づくことであり、現実味を帯びる練習だと思っている。

 

    これらのことがあるので、音階練習はある種音色や自意識の均しだと思っていただければいいかなと思う。均しであるということは慣らしでもあり、練習量が直接技術に結びつくものである。最初は上手くいかなくても徐々に慣れて言って欲しい。

 

2. インターバルは慣らし

    インターバル練習とは、音と音の間隔(英語でインターバル)をしっかり掴む練習である。音階練習とともに大事であり、その目的は大きく1つ。

  • 間隔を掴む。

    それだけだ。ただ、それだけだと説明もクソもないので加えておく。

    低い音と高い音ではなる条件が大きく異なる。それゆえに低い音から高い音へ移行するためにはそれなりの条件変更が必要である。例えば息の圧力量や口の形(アパチュア)、体全体の支えの位置や使い方などは音の高低差に依存する要素の一部だろう。思い通りに吹くという意味で音の間隔を体で覚えていく(慣らしていく)練習がこれに当たる、ということだ。

 

3. リップスラーは音色作りの根源

 

    ユーフォを初心者で始めた際にロングトー

ンの次に多くやっていた練習がこれだ。金管楽器にしかないこの練習で何を会得できるか、それは大きく2つ。

  • 音色作り
  • 唇を柔軟にする

    である。

    3.1 音色作り

    リップスラーはインターバルとは違い、同じ運指で鳴る異なる音をスラーで行き来する練習だ。ロングトーンである程度作ってきた音色をより強固なものにしてくれる練習がリップスラーだ。この「音色作り」というポイントに関しては先程のインターバル練習と似ていて、高い音と低い音の差をなくすという目的がある。

    3.2 唇を柔軟にする

    これに関しては、音色作りとの相乗効果だと思っていただければ良い。唇を柔軟にすることは、その音を力をあまりかけることなく出せるようにすることであり、これにより音色をより操作しやすくなったり音域を広げたりするという効果も期待できる。この「唇を柔軟にする」ことは金管楽器奏者なら特に重要視しておきたいポイントだ。

 

まとめますと

 

    最後まで読んだ方は気づいてるかもしれないが、今回説明した3つの練習方法は目的がかなり似ている。どれも音色を整えたり音の差がある時への対応力を向上させたりする効果が期待できる。この練習が不足していたな、そう感じる人は特にリップスラーを中心にこれらの練習に取り組んでいってほしい。リップスラーを目的を意識した上で多めにやることで、目指すべき音色にぐっと近づくことができるだろう。

 

次回はタンギングダイナミクス練習、更に基礎練と音楽をできるだけ分離しない大切さを説明したい。あくまで願望であるが。

課題曲は「マーチ」が定番なのは何故か

    吹奏楽コンクールについて、特に課題曲について長年変わっていないことがある。マーチが必ず1曲以上含まれていることだ。高校生まではそこまで気にすることのなかった議題だが、今回はそれを初心に帰って考えてみようと思う。何故、課題曲にはマーチが必須なのか。

 

1. 課題曲は「課題が見える曲」が前提

 

    マーチを日本語にすると「行進曲」であることから、マーチはコンサートマーチを除き基本は行進するための曲である(自明)。行進なので、何人かが足取りを揃えて一歩一歩力強く、時に初々しく歩く姿が想像できるであろう。そのためにも、マーチに「リズム感」は不可欠だ。更に行進するための曲であるゆえ「リズム感」以外の要素はできるだけ簡潔に収めたい。そうなると構成の和音に不協和音が来ることは少ないし、刻みなどの伴奏が特殊なリズムを発することも無い。マーチが課題曲に選ばれる理由はここにあるだろう。リズム感などをアンサンブルする力が問われながら、他の要素が簡素すぎてその要素の不足が一瞬でバレる曲であることだ。

 

2. 無感情は審査員も楽なのか

 

    吹奏楽コンクールは当然コンクールなので審査員が演奏を点数化しないといけない。そうなると、先程言ったような簡潔さは非常に粗を見つけやすく採点しやすい。更に、マーチに特別な感情を抱く(エモくなる)ことは稀であるため、審査員の感情移入や好みの差を減らすことが出来る。これは、コンクールをコンクールたらしめる要素になっていると思われる。極限まで運要素を減らし、審査員も聴く体力をそこまで失うことなく採点できる、これはコンクールという舞台において大変有利であろう。

 

課題曲についてまとめる

 

    コンクールという場が、規定上「技術をあげた成果の発表会」のようになっているのが音楽を楽しむという次元からは少し離れている気がする。ただ、やはり聴衆は音楽的なところより技術的な粗が耳に入るものだ。音楽的かどうかは置いといて、音楽全体の技術的な粗を探すゲームのようになっているような気もする。もしかしたらそこは審査員と参加者の間のブラックボックスなのかもしれないが...

    端的に思ったことを言えば、自由曲だけだと指標が曖昧でどういう基準で音楽を採点していけば良いかが抽象化してしまう。課題曲を審査側が指定することで、採点の基準を極力一括にする(特にマーチにはそういう目的がありそうだ)、しかし課題曲だけにすると音楽の自由度が失われる可能性がある。この両立を考えた時に課題曲と自由曲両方存在させるのが最も妥当という判断なのだろう。

    また、Ⅴという異色の存在は音楽としての完成形なのかもしれない。音楽の微睡み(まどろみ)が全て現れているような曲が毎年あって奇妙だな、と思う。

    コンクール時期だからこういうことを考えるのはある種の職業病なのかもしれぬ。だが、それでいい。

教師の気持ち悪さ~1人の大人という自覚~

    僕は今某個別教室で数学と英語を中心に教えるバイトをしている。今回の話は、この間某高校生を教えていて、数学苦手な子に教えていたので疲れただろうと休憩していた時の話だ。その生徒が学校でグループワークをしていて調べものがあるらしかった。その内容が、真駒内に関すること(細かいことは忘れてしまった)で、そのグループの中に南区に住んでる人がいなかったらしい。いたところでわかる内容でもない。当然そういうのは一旦スマホで調べたくなるわけだ。ただ、教師がそれを全否定していたみたいだ。

    色々と話を聞いてみると、教師の頭硬い話がまた出てくる。未だに男尊女卑の価値観を持つらしい人もいるらしい。それを聞いて僕は、反面教師だなぁと思ったのだ。

    色々と思うことがある訳だが、先に結論を述べておこう。「こんな大人にはなりたくない」だ。自分の考えを主張するのは大事なことだが、それを使って他人の意見を押し殺してはいけない。更にスマホ大活躍な今を生きる人間として、スマホを使って何かを検索することをもっと当たり前にしていかなければならないし、検索方法くらいは教えてやれるようにしないと行けないと思う。

    とても難しい話なのだが、今の教育制度を見る限りでは今の日本の教育は時代遅れな方々が回しているように思われる。義務教育は無くさなくても良いが、入試の制度が根本的に現代に対応していない。入試改革とか一時期騒がれたが、まだそう騒げる変革はない気がする。センター試験の廃止、英語の民間テスト採用、記述問題増加、どれもこれも前からあったものをそれっぽく寄せ集めただけにしか聞こえない。そもそも僕がいいと思っている、共通した一次試験みたいなものを辞めるという案は出たのだろうか。そうして例えば情報系の学科にはプログラミングのテストを設けるなど五教科から離れるという発想はなかったのだろうか。

    少し話がそれたので戻そう。自分が1歩ずつ大人に近づいていくのを感じながら、大人とは何かを最近少し考えるようになった。最初に紹介した、頭の硬い教師にならないためには、僕は子供を支えるという意味での大人にならなければならないと感じたのだ。子供の教育の中心は教師や保育士ではない。紛れもない親だ。教師という特別な資格がなくとも子供を教育しなければならないのである。そういう立場になった時に、頭の硬い大人になっては、子供の視野も広がらず、精神的だけでなく物理的にも引っ込み思案になってしまう。

    自分自身も子供の思想の自由を奪うような行為はできるだけ避けたい。そのためにも僕は様々な人種を知り、それを受け止め、自分の考えを発信しながら他人の意見を聞く余裕をもつことが大事であり、大人としてそういう振る舞いをしたいと思っている。

    少し話は変わるが、今の日本では教師という職業が専門化しすぎているような気がする。具体的に言うと、教師になるための敷居が依然として高い。その根拠は、教師になるために大学で受講しなければならない科目の数だ(北大では中学一種で31単位、一科目の単位数が1~2なので、20弱は授業で成績そこそことらなければならない。相当暇じゃないとできない代物だと思っている)。

    ただ、教師という職はもっと敷居を下げて良いと思っている、という言い方は語弊がある。敷居を下げるのではなく、見方を変えるべきだと思っている。ガチガチに教育について授業形式で学んだ人間が人に授業できるか。形式上はできるだろう。ではそれは面白いか。人の学びの助けになるか。

    まぁ文科省がガチガチだからしょうがないし人によって何が学びの助けの指標が違う、更に授業で学ぶべきこともなくなはいはずなのでそこの棲み分けが難しい故仕方ないのだけど、今の教育には、今の学校には学校特有の体験があまり多くないように思われる。一般的な授業でやることは今ならスマホでぽんと調べられる。授業でやるとすればスマホでどう調べたら良いかの材料提供(その教科に対する基礎知識などの提供)と演習のサポートくらいだろう。故に、授業数は必要最低限にして(必要最低限という曖昧な表記なのはしたことがないため。数学は週3~4コマあれば十分だと思う、など)それ以外の部分を学校が、できなければその他の教育機関が教育という名目でもっと様々なサービスを学生に提供してあげるべきだと思う。例えば、インターンシップのような職業体験や学生の視野を広げるための講演会、音楽や映画などの鑑賞、フィールドワークのようなものをしても良いかもしれない。

   僕じゃない人が考えればもっとマシなアイディアが浮かんでくると思う。とかく言いたいのは、中学や高校が大学合格のための入試対策マシーンにならないように、そして学生にそうならないように促さなければならないということである。何故なら日本の入試制度が進学後に役に立つ、もっといえば入学時までに記憶として残すことを主の目的としていないからだ。

 

    もうそろそろ大人になってみたいと感じた記事だ。

心を動かす数学に触れたい!!!物理を作りたい!!!

   数年前から流行っている「プロジェクションマッピング」をご存知だろう。あれは紛れもなく数学と物理でできた綺麗な光の絵だ。プロジェクションマッピングは時に人に「綺麗」以上の形容を与える。「壮大で」「圧倒的で」「感動した」などか。東京駅でやっていたものはまさにそう形容するのが正しいかもしれない。

    数学や物理は、数十年前までは一般人の心を動かすものになっていただろうか?少なくとも日本ではそうじゃなかったはずだ。当時登場したいわゆる「家電」は(当然数学と物理の結晶だ)登場時は人々を湧かせたはずだが、今それを見て感動する人は少ない。スマホだってそうだろう。スマホの機能はもしかしたら人の心を動かせるかもしれないが、本体は人々の心を動かすものにはなりづらい。

    しかしながら、ただ光る機能があるだけの電子機器(ライト)をいくつも並べて、規則的に様々な色を光らせるだけで人は感動する。変な言い方をするが、人の感動はそうした1つの大きな創作物からなると思っている。映画なり、ドキュメントなり、絵画なり、プロジェクションマッピングなり。そういう時に人の心が動く、というのは、形容詞としては「圧倒的」と表現される。大きな「何か」が自分に襲いかかってきた時に、人は少なからず物理的にだけでなく、精神的に動かされるはずだ。

    そういった数学や物理を駆使した創作物を作ってみたいな、と最近思ったわけだ。ただ、当然思うだけなら誰でも出来るし作ったことにはならない。まだ作り始めてすらいないが、今後やっていきたい(楽しそう、程度で書くのでやらない可能性アリ)と思うことを書いてみる。

1. 自然なスピーカー

    スピーカーは基本的に固い。しっかりとした形をしている。それゆえ目の前にあったら「スピーカーだな」と認識できる。例えばそれが家の中のどこにあるかわからなかったらどうだろう?Bluetoothで通信してスピーカーから音が出力されるのはわかるんだけど、何が鳴らしているのかよくわからない。そんな状態は面白くないだろうか?

    これの実現方法は色々考えていて、例えば他のインテリアにそういう機能を搭載する、壁に埋め込むなどが今考えていることだ。

 

2. 数学的法則のある音楽

    これは最近ふと思ったことだ。具体的な構想がある訳では無いが、音楽としても聴けるし、よく考察を重ねてみれば何かしらの法則がある。そんな音楽を作れたらいいな、と思っている。

    そもそも音楽の作りが数学と物理の賜物であることは言うまでもない。音は波であり、それを規則的に配列したら綺麗に聞こえる。その数学性を楽曲単位に落とし込みたい。そう思ったのである。そういうことの重ね合わせの中で、人の心を動かす楽曲になれたらいいな、と思う。

 

まとめ

    今自分の中でまとまっているものとしては以上だ。商業的価値を産むかもわからないが、研究室に所属し少し自分の活動に余裕が出てきたら色々考えながら手を動かしていきたいと思う。言うだけにならないように...

量子コンピュータの勉強ノート

    最近少しばかり気になっている「量子コンピュータ」。とある教授が「量子コンピュータが当たり前になる時代が来ます」と言っていたこともあり、少しその中身について知りたくなった。参考図書に載せた本で勉強しながら量子コンピュータの概要は掴んできた(本格的な理解は、シュレーディンガー方程式など量子力学を理解してからにする)。今回は、たまには情報系大学生らしく、自分の専門では無いものの「量子コンピュータ」の大枠をメモしておく。

 

1. 量子コンピュータって?

 

    多くの方は「そもそも量子コンピュータってなんなの?」というところから始まる。僕もそうだった。名前しか知らない存在だった。簡単に言えば、量子コンピュータとは、量子の特別な性質を応用したコンピュータである。

    色々説明を加えないとなんのこっちゃという感じなので説明する。まず、「量子」とは、小さすぎて一般的なものには有り得ない性質を持つものの総称(電子も量子のひとつ)である。では、その「量子」が持つ特別な性質ってなんなんだろうか?

    ここでは、量子コンピュータの説明に必要な現象だけあげていく。

  • 量子の重ね合わせ→コンピュータのbitが0 or 1なのに対して、量子は 0 and 1。これ。量子の0か1かは、観測されることによって決まる。

  • 量子もつれ→複数ある量子の片方が決まるともう片方がその逆になるという現象

    この2つの現象を用いてするのが、古典コンピュータができない「並列計算」を可能にするのだ(古典コンピュータは超高速の逐次計算)。例えば、10個の量子が存在する時に先程言った「量子の重ね合わせ」をすれば理論上2^10=1024の組み合わせを同時に計算することが出来るわけです。

2. 量子コンピュータのメリットデメリット(スパコンとの比較)

 

    当然、万能なものは存在しない。メリットデメリットそれぞれある。

    メリットは先程言ったように並列計算による計算の高速化、さらにスパコンと比べると圧倒的に消費電力が少ない。スパコンは、計算を全て電子をガンガン回して行っている。当然計算量が多くなれば、その分消費電力は増加する(日本のスパコン京は電力消費量が12.65MWである。400Wで1時間あたりの電気料金を27円とするとスパコンの一時間あたりの電気代は32.4万円。やばい。)。

    今よく使われている量子コンピュータは、量子の重ね合わせ・もつれを発生させるために超伝導(金属を絶対零度にして抵抗を0にする現象)を用いるため、絶対零度にするための電気しか必要としない。それにより、消費電力を1000分の1程度にすることが出来るのだ。また、違う方法もあり、それは常温ですることが可能なので更に抑えることが出来る。

    もちろんデメリットもある。まず、今の技術ではそこまで多くの量子を扱えない。作るのも、それらを制御するのも難しく、今の技術ではできて精々50個程度だという。この量子ビットが増えればもう少し利用場所が増えると思うのだが、難しいところだ。

3. 量子コンピュータ、必要?

 

    確かに、並列計算可能になるから計算に使う量子(量子ビットという)が増えれば計算時間めっちゃ短縮できるし、既にそれを使って分子シミュレーション(製薬、新薬開発などに使う)が実装されている。しかし、それ以外の活用法がなかったら必要か?という話になる。先程言った技術力の足りなさがあるのなら、あまり広く使われないのでは?ということになる。

    それが現在の課題だ。より多くの量子ビットを扱う技術、方法を模索している状態だ。

    では、そこまでして量子コンピュータを実現したいのは何故か。それは古典コンピュータの限界が近いことにある。今のコンピュータの計算の速さは集積度をあげること、すなわち計算部をできるだけ小さくして限りある場所に大量に詰め込むことにある。ただ、当然それらは物質なので大きさがある。当然原子より小さくはなりえないため、そろそろ限界が近い。

    てか待ってよ。そもそもこれ以上計算を早くするメリットはなんなの?それ。

    これからの利用方法のひとつに、仮想通貨で使われる暗号の強化がある。原理は詳しくは説明しないが、仮想通貨の暗号化には素因数分解が利用されており、古典コンピュータにとっては計算量が多すぎて解読が困難なのだ。量子ビットを大量に扱える量子コンピュータが完成するとそれが解読されるという。(アメリカの研究者ピーター・ショアにより証明されている)逆に言えば、量子コンピュータ側がそれを包含するような暗号化システムを生成できるのでは?とも言えそうだ、というロジックである。

    さらに、クラスタリングという技術を用いれば、昨今流行りのAIにも応用が利くというのだ。AIの技術がどこで冷めるかは知ったことではないが、現状は量子コンピュータを必要なものとしてカテゴライズして問題はなさそうだ。

 

まとめ

    量子コンピュータの概要しか話していないが、僕が利用する確率を考えると概要だけ知っていれば良さそうだ。もっと言うとそれを判断できるだけの知識の体系が自分の中に存在しない。まだまだ勉強が必要そうだ。

深夜という亜空間<静寂と星>

    私も大学生なものだから、深夜に帰宅することなんてざらにある。そういう時に、いつもの道が昼間とは違うという感覚を初めて感じたのは、初めて終電で帰宅した時だ。ほぼ存在しないに等しい信号ルール、喋り声のない暗がり、たまに見える星。全てが「静寂」ベクトルに向かっている感じがする。

    僕は、植物で言うなら生い茂った緑色も好きなのだが、枯れかけの茶色の方が好きだ。寧ろ後者の方が生気を感じる。大人になったのか老人化したのか、最近喧騒よりも静寂を少しばかり好むようになった。

    昼間には昼間の良さがある。太陽光が自然に、有機物に生気を与え、生き物達が鳴いたり動いたりしながら時が動いているのを感じる。光があるため、自分の身の回りで何が起きているかを把握しやすく、安心感という言葉も似合いそうだ。

    対して夜はどうだろう。恐らく全世界において、夜という空間は昼とは全く異なる世界になっているはずだ。泥酔して倒れ込む人間とそれを介護する人間だったり、場所によっては星々が輝きを見せて星座という構造物を成したり、車通りが極端に少なくなり細い道を歩けば静寂に包まれたりなどするわけだ。この異世界、別な言い方をすれば時が止まったような世界がたまらなく好きである。

 

    それを強く感じることが出来る場所が、深夜の公園だ。誰も使っていない動く気配のない遊具やベンチ、そのまわりに少しばかり生えており小さく吹く風に揺られる植物、僕はそういうところにそのものの真実みたいなものを感じる。ものがものとして存在する感じ、そういう佇まい。上手く表現できないが、誰もいない公園はまるで公園の本質のように感じられ、そこに淀むオーラのようなものが、僕を引き寄せる。

    記念にスマホではあるが写真を撮ってみた。客観的に見た時にその佇まいが若干失われるかもしれない。



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    最近写真を撮るのにもハマっているので、今後ともこういう写真集みたいな記事は書いていきたい。

    今回深夜に写真を撮って思ったことは、周りに光源があるため思ったよりものがしっかり写っていること。また、深夜でも咲き誇っている花たちの美しさにも気づけた。昼間は主役になりえない彼らが夜中に影の主役的ポジションを凛と持っている印象。

    そういった意味で時間を忘れられる空間、それが僕の中での「深夜」という美学だ。

「エルザの大聖堂への行進」が練習曲として有効な理由

    弊団では基礎合奏のメニューとして「エルザの大聖堂への行進(以下エルザ)」を毎回やっている。ゆったりとしたコラールは割と色々なところで練習曲として演奏されている。では、なぜゆったりとしたコラールが練習曲に選ばれているのか、それは全ての基礎が詰まっているからである。

    高校生の頃にはコラールの練習はやっていたもののその意味があまり理解出来ておらず、あまり効果的な練習になっていなかった。というわけで、今回は今だからこそ分かったコラールでの練習の意味とより効果的にするための意識を自分なりにまとめてみる。

 

1. 「全ての基礎」の箱の中身

    と言われても、僕は「全ての基礎」についてわかりきっていないのも現状だ。コラールをやることによって試される「基礎」とはなんなのか、少しずつ細分化してみる。

1.1. 音のコントロール

    練習に使われるようなコラールは基本的にはどのパートも指的、音域的な難易度を要しない。そのため、その楽器が綺麗に出せるべき音域を提示してくれている曲、というふうな見方もできる。特に伴奏だったら顕著なのだが、伴奏での伸ばしの音をpで出し、その音量をキープする、という技術は楽器を1年経験しても身につかないことが多い上に重要な課題である。

    コラールの役割のひとつとして、出したい音を出したい音量で出したい音色で出せるようになることがあると思う。個人レベルの話ではあるが、ゆったりとしたテンポで音域的な余裕がある中でのそういうことを意識した練習は、個人レベルの音のコントロール力を試すのに丁度いいし、忙しくなく吹きながらでも客観視しやすいため、自分の課題が見つかりやすいという利点もあるだろう。

 

1.2. アンサンブル力の向上

    コラールは打楽器がリズムを刻んでいる曲、極端にいえば打楽器がテンポである曲ではない。そのため、テンポ感を自分たちで感じなければならない。当たり前の話だが、これができていない人は非常に多い。特に重要なのが、メロディーがどう吹きたいかを主張し、それに伴奏が答えを見つけていくということを繰り返す、例えるなら議論だ。メロディーが「私はこう思うんだけどどう思う?」と発信してそれに対し伴奏が「いいと思うからそれに合わせた基盤作るね」とか「もっとこうして欲しいな」というのを演奏で返事する。それを繰り返していくのが合奏であると僕は思っている。

    そのためには、メロディーラインの担当は「このメロディーってこういう感じだよね」という印象を持たないといけないしそれを相手が受信できる形で発信しなければならない。そして伴奏側はそれを既読無視してはいけない。音でのコミュニケーションをアンサンブルという形で量らなければならない。リズム感であれ、音量バランスであれ、音色であれ。

    コラールは吹くのに多少の余裕があるはず。アンサンブルする力、しようと思考する力はそういった余裕がある環境でやろうとする方がやりやすい。

 

    コラールが全ての基礎を試す場になっているのは、こういった思考の余裕が他の曲より多いからであろう。

 

2. 役割分担とその後の役者

    コラールのもうひとつの特徴に、自分の吹いている音が今メロディーなのか、対旋律なのか、伴奏なのかがはっきりしている点がある(因みにこれはマーチにも言える。課題曲に必ずマーチが存在するのはこのためだろう)。全てが他の曲でも主要な役割であり、コラールだとそれが顕著に見える。そのため、歌いこみを全うできるできるのだ。

    例えばメロディーを吹いているとしたらどこにフレーズの山を作りどこでどういった感情を持たせて人の心を動かすか、対旋律ならばメロディーとどういう掛け合いをしていてどこにメロディーの、どこに対旋律の聞かせどころがあるか、伴奏ならばメロディーラインがどこに頂点を持っていっており、その誇張をどれほど行えば良いか、ということを考えると良いかもしれない。それぞれが違う役割を持ってしてひとつの劇(音楽)が完成するのだ。

 

3. 総括

    コラールについて思うことはこれくらいだ。何度も言う通り、コラールには技術的な(人によっては体力的にも)余裕がある。それにより自分が音楽をすることに集中しやすくなる。その余裕を持った中で何をするか、基礎合奏の括りの中にいるコラールをどう扱うか、当然人次第であるため、是非今一度考えてみて欲しい。