大人になるとはストレスと戦う戦闘民族か

    僕は、未だに「大人」という言葉を聞くと、どうしてもストレスと常に顔合わせなイメージがある。完全な偏見なのだが、令和になった今でもそういうバイアスがかかってしまうのである。

    僕は、今割とストレスフリーに生きていられている。ありがたいことだと思っているが、早く当たり前になって欲しいとも思っている。

    「もっと大人になりなさい」「ちゃんと考えて行動しなさい」などの言葉は、僕にとっては解像度のあまい、抽象的な言葉だと思っている。大人の定義もできず、考えた上での行動がそういう注意の受けるものであれば、何をして良いかわからなくなるということも自明なはずだ。

    もちろん、仕事を始めないとわからないストレス感覚だったり生活感だったりは存在するだろう。ただ、それを抜きにしたストレスに関しては、まとわりつくべくしてそうなってしまったのではないか?

    よく聞くストレスに「人間関係」がある。当然僕も「この人とは性格が合わないな」という人はそこそこいる。以前記事で書いたことに付加して言うと、、人間関係の悩みは、①そういう人だと割り切ること、②意図的にその人から避けること、の2パターンがある。(①は前記事を参照)

    ②に関しては、例えばその人がいる職場や団体には参加しない、いる職場にいたとしても極力嫌われる努力をする、などだ。あまりいいイメージを持たれないかもしれないが、逆にいいイメージを持たれたいと思う人に対して多く関わり、多く信頼を獲得しておく方が僕は重要だと思っている。そのためには、人間関係のストレスからはできるだけフリーになる必要がある。そのストレスを他人にぶつけてしまっては元も子もない。

    大人といえば、たまにいる「僕はなんでも知っているから任せてよ!」みたいな大人も僕がなりたいと思わない類の大人だ。少なくとも僕はまだまだ知らない世界があると思っているし、知らない世界に対してはなるたけフラットに対応していこうと思っている(実現出来ているかはわからないが)。

    僕の中ではそれが正解に近いと思っているのだが、どうも無知の無知魔人は世界に蔓延っているようだ。自分自身でも無知の無知である領域がないとまでは言わない。それを自覚してない振る舞いをするのは真に大人だろうか。

    まぁ色々書いてきたが、結局ストレスを上手に処理できる人を僕は今のところの「大人」の定義の一つとしておこう。

    こんな記事を書けるのは大学生までかもしれないから、今のうちに小汚い理想を書いておいて、後で「机上の空論だったな」と後悔する日が来るのを楽しみに待っている。

    さぁ、また大学生をしに行こう。