高校の制服は何故消えないか、って意外と大事じゃん?

    今の中学生や高校生は殆どが「当たり前のように」制服を着ている。巷の学生はおしゃれをしたがらないのか?と疑問に思うくらいには。

    僕は、圧倒的に制服過激派で、制服はいらないと思っている。もっと言うなら、「don't have to」ではなく「must not」がニュアンスとして正しい。

    何故か。

    まず、制服が必要だった時代のことを考えて欲しい。制服は、戦時中に心を律して、全員が集団行動を小さい頃から取れるように小学生から着せられたユニフォームだ。すなわち、制服を制定する目的は「集団行動ができるようになれば戦争に勝つチャンスはある」という明確さを持っていた。

    その経験や意味は、個人的には高度経済成長期までは意味を持ったと思う。工場が機械でなく人の手で行われてた時には、工場で働く人手は重要な課題だった。

    単純作業が多いため、精神的に統一された、ある種のチームワークをなすための協調性が必要であった。その意味での制服というのは少しは意味を持ったと思う。

    では、今の制服になにか意味を感じるか。

    僕は今の時代に「協調性」という概念を持ち合わせるのは時代遅れだと思っている。ストレスフリーになるための社会が作られようとしている中で、別に興味のない人とチームワークをさせられる。(チームワークの内容が面白ければ話は別だが)その過程で得られる「協調力」は、ディスアドである「ストレス」に敗北する。

    もっと言うと、今は「発信する力」の方が武器になりやすい。だから、周りに同調するより「こうじゃないですか?」と口を挟む方が仕事が回ってくるわけだ(きっと)。

    それを考えると、制服というのは現代の概念に合ってないわけである。

    こういう意見もあるかもしれない。「教師と生徒の差がつかない」

    だからなんだ?教師は基本スーツなどの正装なのだから十分ではないか。高校生なら特にその差に気をかける必要は無い。

    また、こういう人もいるかもしれないので言っておくが、制服=青春のような論理が働くこともあるらしい。

    これは完全に偽であるとは言いきれないのがもどかしい。青春ドラマにおいて、私服の学生が描かれることは基本ないし、制服でUSJ、制服でディズニーランドという文化も何らおかしくない形で浸透している。

    そもそも「青春」の定義はなんだろうか?辞書で引いてみようか。

    1 夢や希望に満ち活力のみなぎる若い時代を、人生の春にたとえたもの。青年時代。「青春を謳歌 (おうか) する」「青春時代」
2 春。陽春。

    どうやら「青春」の原義は、活力のある若い時代のこと、すなわち人生の時間軸の一部らしい。ということを考えると、やはり制服でしか青春を味わえないという命題は偽であるとわかる。

    青春という時代は誰にでも訪れる期間であり、それがたまたま制服を着ている学生の期間と被ることが多いため、そのような植え付けがある。

    僕の見解では、「こんなに動きづらい青春のどこがフレッシュなんだろうか」と思う。

    最近の制服は、男子はかっこよく、女子は可愛くなってきている。(ここには否定の余地がない)さらに、革靴は履かなくていいよ、と言っている学校もかなり増えてきている。

    じゃあ問おう。「革靴じゃない制服は、ダサくないか?」

    制服をファッション視するのであれば、僕は圧倒的に革靴とのマッチングの高さはあると思う。革靴無しをOKにするくらいなら、制服廃止した方が早いと思うのだがね。

    そもそも、そういった社会のルールみたいなものは学校の先生だけではなく大人という大きい括りから学ぶものであり、学校という狭い世界で学ぶものでは無い。(少なくとも今はそういう場所になってない)

    だったらさっさと制服を廃止して、外の世界を知る機会を増やしたらどうだ。もっとかっこよくとか、もっと可愛く、その考えが1番時代遅れだ。学生はもっと自由であるべきだ。という愚痴は、誰かに届いて誰かにストレスを与えるんだろうなぁ。

     まぁ、各々考えてくれ。