普段考えていること(芸術家編)

    北大の大きな通りを通ると、大きな並木が見える。たまに木の写真を撮ることがあるのだが、写真で撮られた木と実際に目に映る木には、そこそこ大きな差がある。

    写真で撮ると、例えば雪が降った時の風邪が起こす流動性が静止画として収められるわけなので、雪がその場で静止しているように見える。

    これは、写真を撮った時に初めてわかったことなのだが、写真を撮る時は、木の大きさやダイナミクスが大きく見えるのだが、それが写真となると、思ったよりちっぽけに見える瞬間がある。

    これが、人の心を揺らがせる感覚であり、人の心が揺らがない写真を撮ったことになる、というわけなのだ。

    人間の心はとても複雑で、その煩雑性は言葉の次元を遥かに超えている。

    だから、人の心はプログラミングされないし、Deep Learningという近づき方が最適とされるのだ。

    僕は、今でもこの「感情と言葉のグラデーション性」に困っている。中学生の頃に受けた音楽の授業で、「ベートーヴェン交響曲第5番、運命を今まで沢山聞いて学んできた感想を書きましょう」という内容のものがあった。

    困った、最適な言葉が見つからない。今の自分の気持ちを表す言葉が見当たらない。

    最終的に、浅い言葉(迫力があった、力強かった、など)を横並びにするしか無かった。それがとてももどかしくもあった。

    ただ、一般相対性理論パラレルワールドを認めるように、別の世界線を認めても良いのかもしれない。そう考えるのが適切な時期かもしれない。

    そのグラデーション性をそろそろ認めなければならないと共に、共感覚的な別次元の感覚器官の方が相手に伝えられるかもしれない。

    そういえば、第六感と呼ばれるものが、磁気的な感覚であると言う科学者がいる。この磁気的な感覚は、よく渡り鳥が方向を間違えずに移動出来ることの説明に使われる感覚だ。

    それが人間にもあるというのだから不思議だ。その科学者が言うには、道にすぐ迷う人と、大体の方向感覚があって迷わない人の差がこの磁気的な感覚なのだという。

    地球がひとつの大きな磁石であることは言うまでもないが、今でも不思議である。

    話を戻すと、最近は、言葉と感情のグラデーション性をできるだけ改善すべく、できる限り言語化しようと思っている。

    例えば、2012年の全日本吹奏楽コンクール課題曲Ⅰ「さくらのうた」を聴いた時に、単に「美しい」とか「最後が壮大だ」というのではなく、「昼の桜より夜桜を思わせる悲しみが溢れる音楽だ、桜の開花もそうだが、どちらかといえば散り時に焦点を当てているのだろうか」と、できる限り言語化する。それがグラデーションを離散化する近道だし、芸術に対する審美眼を磨くいい機会だと思う。

    その例として、その曲はどんな色で、どんな匂いで、どんな形で、どんな触り心地か、を想像するのが良い。「さくらのうた」であれば、「色は紺の背景にピンクとオレンジがグラデーションで混ざり合った色、匂いは無臭に近いが、自然独特の匂いがする、ただ木の匂いではなく花の匂い、形はかなりぼんやりとしているが、急に近い形で中が空洞になっているが、その空洞と図形の分かれがわからない、触り心地は、暖房的でなく、人間的に温かく、触ると直ぐに変形してしまうやわらかさ」など。ここまで詳しく書く必要は無い(単に「黄色」とか「三角形」で構わない)上に正解はない。

    とにかく表現してみればいい、それが自分を自分たらしめる行為だから。

 

    芸術家 しらす