スマブラって難しいね。

    今回も今回とて戯言記事。

    スマブラで強くなりたいと願ってはや3ヶ月が経とうとしている。最初はミュウツーを使っていたけど、使いこなせなくて出会ったウルフと共に切磋琢磨している。

    スマブラはとても難しい、考えることも体で覚えることも多いし、慣れの部分もしっかりとものを言ってくる。時に運ゲーにしないといけないのも複雑さをあげている要因の一つかもしれない。

    でも、他のレッドオーシャンと同様、自分なりの理論を(仮説を)立てて検証していく。この少しブルーよりな海の方が僕は好きだ。勝負をしながら実験と検証を繰り返す。そしてその勝負での勝ちに近づく方法を先人の知識を借りたりしながら勉強していく。それが通用した時はとても嬉しい。

    明確な目標がある分、下手したら学業より楽しいかもしれない。当分はVIPに乗ることを目標にしているが、spから本格的に始めたこと、基本不器用であることを考慮するとやはり中々難しい。自分より上手い人は溢れるほどいるので、たくさん知識や知恵を吸収して、いち早く強くならなければな。

    最近は、ウルフだけでなくゲッコウガパルテナを練習しようかと考えている。メインにするかサブメインにするかは考えものだが、自分が使わないキャラの特性を少しずつ掴んでいくという意味ではありなのかと。(ウルフとゲッコウガパルテナはあまり攻めのベクトルが被りが少ない)特殊なキャラを使うのが始めたばかりというのもあって中々手を出し難い。とにかく、色々なキャラに触れることによるキャラ対策はそこそこ重要視している。

    少なくとももっとコントローラーに、スマブラに触れて、抑えておくべきことをしっかりやらなければならないな。経験値を貯めるように、一つ一つ会得していこう。それが後に糧となり、指数関数的な成長をもたらすと信じて。

 

結論:スマブラは難しい。

 

P.S ゴールデンウィーク中のVIPの基準の上がり方が半端ない気がする。やはり、長期休み期間は絶好のスマブラ日和ということか。また少し差がついてしまうなぁ...

4ヶ月ぶりの定期演奏会を涙を交えて振り返る

    先日僕が入手したのは、「北海道大学連合吹奏楽団第46回定期演奏会」のDVD。約4ヶ月越しになってしまったのは仕方ないとして、僕はワクワクしながら家に帰り、再生した。そして、この記事は、再生しながら書いている。

    ロビコンとして行われた木管8重奏の「ゆきのはなびら」、金管8重奏の「奥義」はどちらもうまかった。木管の方はバランスがよかったし、金管は何よりソロがうまかった。

    第1部オープニングは「ジュビリー序曲」。最初のファンファーレは圧巻で、早いところも中々よかった。テンポが安定しなかったのが残念だったが、いいオープニングを飾れたと思う。

    次は「ルイ・ブルジョアの賛美歌による変奏曲」。中間部はテンポ感も安定していて、ソロも完璧だった。ただ、連符の精度があまり良くなく、連符になった途端少し音量が下がるのがもったいない。この曲が今回の大きな反省点となった曲かもしれない。

    1部最後は「宇宙の音楽」。なんてきもいセトリなんだ。

    ただ、あまりにもうますぎる。冒頭のホルンのソロ、ビッグバン、孤独の怒涛のソロ、ハルモニアの和音スペシャル、未知で迎えるラスト、完璧すぎた。思わず泣きそうになったのは内緒だ。

    第2部のオープニングは「Mr.インクレディブル」。勢いのあるこの曲に勢いはつきすぎた。ドラムのノリに全員が乗っかり、「勢い」というベクトルで一体感のある演奏だった。

    続いては「戦場のメリークリスマス」。ピアノ素晴らしかったよ。お疲れ様。

    2部最後は「ジャパニーズグラフィティⅨ いい日旅立ち」。各ソロが素晴らしい演奏をしていた上に、いい意味で落ち着いた演奏をしていたと思う。いい日旅立ちは、何回聞いてもいい曲ですねぇ。

    3部はまさかのバーンズの「交響曲第3番作品89」。1楽章。冒頭のチューバソロは文句なしすぎる。絶望感を全員で表現し切っていたのではないか。改めて低音強し。

    2楽章。ファゴットさんうますぎではないか。その後に続くソロ、それぞれのパートのアンサンブルが心に響く。

    3楽章。ずるい。本当にずるい。冒頭から泣かせにいきすぎている。実際泣いた。ハーモニーが本当に綺麗で、理想を思い描いたバーンズの感情がモロに出ていたようだった。

    そして4楽章。これもずるい。特に後半、短調になってからだ。印象的なメロディー、中間部の穏やかな部分、ラストの和音、何もかもが素晴らしい!

    アンコールとして演奏した「そりすべり」も「宝島」も素晴らしかった!(語彙力)

    本当に素晴らしい定期演奏会だった。こんなセトリじゃなくても、大曲はぜひとも来年もお世話になりたいものだ。こんなに感情の昂った演奏会は初めてだ。ありがとう。

 

P.S

宝島が、映画のエンドロールの雰囲気しか出してなかった。改めて宝島は神曲だと感じた。真島さんありがとう。

記憶力の無駄遣いとどうしようもない時間の浪費

    物事を記憶する能力は、何をするにおいても重要な役割を果たす。何より、物事を効率よくやる時には欠かせないアビリティのひとつだ。

    仕事でも勉強でも、その生産性や効率性に影響を十分に与えるこの「記憶力」。

    タイトルにある「無駄遣い」とはなんなのだろうか。記憶力が無駄になるなんてことがあるのか?

    実体験を元に説明しよう。僕は中学生の頃に星とか宇宙とかに興味があった。(今もある)それでネットで色々調べていた時に、ニコニコ動画に宇宙にあるものの大きさを比較したり、何かしらにかかる時間(例えば、日本でM3.0以上の地震が起こる平均時間や、エントロピーが最大になるまでの時間など)の比較の動画があって、それをよく見ていた。

    大きさの動画を見ていた時に、僕はその大きさを自分なりに想像してぎょっとした。自分の、地球のちっぽけさを知ったような気分で恐ろしかった。

    その動画を3回くらい見た頃には、僕はホラーゲームやホラー映画を見た時のように強く心の中に刻まれ、夜眠れなくなった。今ではかなりくだらないのだが、当時はそろそろ隕石が降ってきたり太陽が急に膨張を始めて地球滅びるのかも...とか思っていた。

    覚えてしまったものを忘れられなくて困った例がもうひとつある。自分が当時嫌いだったり嫌だったりしたことや人の顔を忘れられないことだ。

    人は大概忘れるのだが、出来事は昔は全く忘れられなかった。意味の無い罪悪感と離れない嫌悪感を抱えながら生きるのは割と辛い。

    僕は、それを考える暇がないほど用事を入れたり別なことに没頭するなりしてそういうことは今はあまり無くなっている。

    こんな記事を書いたのにはきっかけがある。「さんまの東大方程式」という番組があるのはご存知だろうか。その番組の中で、東大生の悩みとしてこのような事(忘れたいことを忘れられない)を取り上げていたのをふと思い出したのだ。

    こういう思い出に耽けるような記事もたまにはいいだろうということで書いたというわけだ。

    読者には、そんな経験あるだろうか?

 

P.S 僕は暗記が苦手な方で、それでもこういうことが起きるので、人間の脳の単純さ、それと同時に煩雑さが伺えれば幸いである。

「吹奏楽の旅」で感じる吹奏楽の熱さ

    先日たまたま吹奏楽の旅が(勝手に)YouTubeにあがっていて、少々内容が気になったので見ていた。そこには学生ならよく感じるジレンマを表向きにしたような感触があった上に、レッドオーシャン独特の勝負の厳しさを感じた。

    ある高校生は、とりあえず「はい!」と返事して顧問に本当にわかってんのかと怒鳴られたり、ある人は自分が音楽に入りきれてないことを悔しくて涙を流していたり、またある人は「後輩に色々教えないと」という思いとそれでいて実際に教える時に感情的になる、とのジレンマを抱えながら、全国大会を目指しているのだ。

    見てる人を感動させるくらいの「勝負の世界観」があるし、実際勝負をしている。コンクールのメンバー規定には逆らえないので、55人のメンバーに入ろうとみんなが上を目指していく。お互いに切磋琢磨しながら。それもまたジレンマ。

    演奏技術もそうなのだが、そういうことを繰り返して勝負強い人間が作られていくのか、ということを強く感じる。ライバルが居るし、自分の音を他人に聴かせる機会も多い。

    僕はそういう情熱的な顧問の元で全員が一丸となってガチガチにやっていくのは苦手なタイプだ(と思う)。東海大札幌とか札幌日大に入っていたら人生が180度変わっていたはずだ。

    こういうことを考えれば「吹奏楽」という題材が漫画化され、書籍化され、アニメ化され、ドラマ化され、映画化される理由がわかると思う。そういう、結末が非情な時もある物語なのだ。と改めて感じた。

    ああいう情熱に満ち溢れた姿を見ると、老い初めて来た自分の体に少しながらエネルギーを与えてくれる。吹奏楽を同じくやっている身として、なにか感じざるを得ないのもそうだし、若さというものの偉大さ、フレッシュさをまた感じる。

    これが、真に人の心を動かす音楽の作り方なのかと。真摯に感じたことを書いた迄だ。

    さあ、うちの団もそろそろ吹奏楽コンクールの課題曲、自由曲が決まる頃。今までとは別ベクトルの熱を働かせながら気を改めて頑張っていこうか。

将来の目標を、おーいお茶を飲みながら考えてみる

    工学部の大学3年生である私は、将来について何度か考えたことがある。

    小さい頃は「電車になりたい!」と言っていたような気もする。非現実的な夢を語るのは幼少期に必ず通る定石だろう。

    実は、スポーツ実況者に憧れていた時代もあった。状況を瞬時に把握して、それを自分なりの言葉で即時的に伝える、この凄技に感動した覚えがある。小学生時代に気づいた、ひとつの憧憬だった。

    中学生の頃には、「教師になりたい!」という明確な目標があった。この頃に、「自分は何かを他人に伝える、教えるのが好きなんだ」ということに気づいた。

    それからは、割とその路線でしかものを考えていなかった気がする。高校生の頃も、なんとなくそんなことを考えながら漠然と過ごしていた。しかし、大学に入って、取る授業の多さと面倒さにやられて取るのを諦めた。こんなに専門性の高いものだったか、と呆気にとられた。

    クイズプレイヤーに憧れてた時代もあったし、実際普通よりはできる方だと自負している。ただ、大学のクイズ研究会の体験に言った時に、この人たちと一緒にやってけるか、という点で当時は怖気付いてしまっていた。(今はなんともないが)それもあり、今はその路線は考えていない。

    今はスマブラにどハマりしているし、周りに強い人がたくさんいるから、モチベーションもキープ出来てる。それを仕事にしてもいいと思ってるし、今情報系の学科で好みの研究室に入れたら、一般企業の就職もいいなと考えている。

    つまるところ、何も決まっていない。色々なことに興味があって、優先順位を上手く決められない。まぁ、一般人に未来は見えないので仕方ない。必要最低限の縛りの中で最高のパフォーマンスができるような準備だけでも今からしておこうか、とふと思った。

    そんなぼーっとした呟きを、おーいお茶の濃い味を飲みながら考えていた。

ブリュッセル・レクイエムの魅力

    2018年、第66回全日本吹奏楽コンクール全国大会にて、激震を走らせる演奏があった。(筆者は行っていないが...)

    ベルト・アッペルモントが2017年に作曲した「A Brussels Requiem(ブリュッセル・レクイエム)」だ。

    2016年3月22日にベルギーはブリュッセルで起きた爆撃テロの追悼として描かれた作品で、当時の爆撃の様子やそれに揺れ動かされる感情が鮮明に記してある。

    何が衝撃的だったか、その圧倒的難易度と、それに見合うようなかっこよさだ。

    初めて聴く人は、クラリネットソロから始まる最初のゆったりとしたところに突然ぶっ込んでくるトランペットの連打に驚くだろう。

    そこから題材通りの爆撃大会が始まる。木管は連符に猛威をふるい、金管はとかく吠えられるところで吠える。(コンクール用のカットはそれが顕著に現れている)

    ダイナミクスは極端にやらなきゃこの曲の味は出ない。ただ「難しい」だけで終わる。16分強あるこの曲は、まさに緩急が重要であり、それに付随して連符、連打系の難易度がついてくる。

     そんな意識で作らないと、音楽ではない、それこそ作るまでが作業になりそうな曲だ。

    こんな曲を、名取交響吹奏楽団、精華女子高校吹奏楽部、さらに北斗上磯中学校吹奏楽部まで全国大会でやっているのだから驚きだ。

    それでも僕はかっこいいと思うし、いつかやりたいと思っている。

    ホルンの吠える場面はどの曲でもかっこいいが、この曲もかなり使い方が上手い。数々ある連符や連打も効果を見据えて置いている感がある。(申し訳ないが、華麗なる舞曲はただ連符並べられるだけ並べてみた感が否めないので...)

    要所要所にメロディアスな旋律、美しい和音も挟まっており、音楽としての揺れ動きが激しい一曲かな、と個人的には思っている。

    僕が初めて聴いた時は、ジョン・マッキーの交響曲「ワインダークシー」を初めて聴いた時と同じような衝撃が走った。なんなんだろうな、難しいから魅力を感じているのではないと思いたいけど、かっこいいと思う曲がだいたい難しいのは否めない。

    ただ、少なくとも情熱的な演奏は、人の心を動かすほどダイナミクスがあり、ハーモニーも深いはずだ。そういうものに魅力を感じ、感動するのは自明かもしれない。

    そんな正当化をして、文章を締めよう。

P.S

    ここまで一曲聴くのに体力を使う曲があるだろうかね、シンフォニーの重さと音楽の荒ぶりがそうさせるのか。

高校の制服は何故消えないか、って意外と大事じゃん?

    今の中学生や高校生は殆どが「当たり前のように」制服を着ている。巷の学生はおしゃれをしたがらないのか?と疑問に思うくらいには。

    僕は、圧倒的に制服過激派で、制服はいらないと思っている。もっと言うなら、「don't have to」ではなく「must not」がニュアンスとして正しい。

    何故か。

    まず、制服が必要だった時代のことを考えて欲しい。制服は、戦時中に心を律して、全員が集団行動を小さい頃から取れるように小学生から着せられたユニフォームだ。すなわち、制服を制定する目的は「集団行動ができるようになれば戦争に勝つチャンスはある」という明確さを持っていた。

    その経験や意味は、個人的には高度経済成長期までは意味を持ったと思う。工場が機械でなく人の手で行われてた時には、工場で働く人手は重要な課題だった。

    単純作業が多いため、精神的に統一された、ある種のチームワークをなすための協調性が必要であった。その意味での制服というのは少しは意味を持ったと思う。

    では、今の制服になにか意味を感じるか。

    僕は今の時代に「協調性」という概念を持ち合わせるのは時代遅れだと思っている。ストレスフリーになるための社会が作られようとしている中で、別に興味のない人とチームワークをさせられる。(チームワークの内容が面白ければ話は別だが)その過程で得られる「協調力」は、ディスアドである「ストレス」に敗北する。

    もっと言うと、今は「発信する力」の方が武器になりやすい。だから、周りに同調するより「こうじゃないですか?」と口を挟む方が仕事が回ってくるわけだ(きっと)。

    それを考えると、制服というのは現代の概念に合ってないわけである。

    こういう意見もあるかもしれない。「教師と生徒の差がつかない」

    だからなんだ?教師は基本スーツなどの正装なのだから十分ではないか。高校生なら特にその差に気をかける必要は無い。

    また、こういう人もいるかもしれないので言っておくが、制服=青春のような論理が働くこともあるらしい。

    これは完全に偽であるとは言いきれないのがもどかしい。青春ドラマにおいて、私服の学生が描かれることは基本ないし、制服でUSJ、制服でディズニーランドという文化も何らおかしくない形で浸透している。

    そもそも「青春」の定義はなんだろうか?辞書で引いてみようか。

    1 夢や希望に満ち活力のみなぎる若い時代を、人生の春にたとえたもの。青年時代。「青春を謳歌 (おうか) する」「青春時代」
2 春。陽春。

    どうやら「青春」の原義は、活力のある若い時代のこと、すなわち人生の時間軸の一部らしい。ということを考えると、やはり制服でしか青春を味わえないという命題は偽であるとわかる。

    青春という時代は誰にでも訪れる期間であり、それがたまたま制服を着ている学生の期間と被ることが多いため、そのような植え付けがある。

    僕の見解では、「こんなに動きづらい青春のどこがフレッシュなんだろうか」と思う。

    最近の制服は、男子はかっこよく、女子は可愛くなってきている。(ここには否定の余地がない)さらに、革靴は履かなくていいよ、と言っている学校もかなり増えてきている。

    じゃあ問おう。「革靴じゃない制服は、ダサくないか?」

    制服をファッション視するのであれば、僕は圧倒的に革靴とのマッチングの高さはあると思う。革靴無しをOKにするくらいなら、制服廃止した方が早いと思うのだがね。

    そもそも、そういった社会のルールみたいなものは学校の先生だけではなく大人という大きい括りから学ぶものであり、学校という狭い世界で学ぶものでは無い。(少なくとも今はそういう場所になってない)

    だったらさっさと制服を廃止して、外の世界を知る機会を増やしたらどうだ。もっとかっこよくとか、もっと可愛く、その考えが1番時代遅れだ。学生はもっと自由であるべきだ。という愚痴は、誰かに届いて誰かにストレスを与えるんだろうなぁ。

     まぁ、各々考えてくれ。